理由を覚えているだろうか。はぐらかした、小さな気持ち。校舎を包む喧騒が消えたころ、彼は顔を出した。待ち合わせから半刻も過ぎた後だった。試験期間の為に部活が行われていなかった為、放課後が訪れると学校は静寂がやってくる。何時かやってくるであろうその時を、自分のクラス、三年七組で私はそれを待った。私はずっと七組だった。周りの人々が代わっていくだけで、自分はずっとそこに居た。別にそれを嫌がるわけでもなんでもない、ただ三年になってから私は野球部でひとりだけの学級になったことくらい。たった11人だもの、しょうがない。二年前。二年前。15歳の春。校舎から離れたグラウンドまで歩くのに、最初は戸惑っていたっけ。
 乾いた音を立てて、その戸は開けられた。茜色に色づいた彼の顔を見て、ああ、もう夕方なんだと気付く。彼も随分身長が伸びたのではないだろうか。歩いてくる人を見ながら、ふと二年前を思い出すと、懐かしさに頬が緩んだ。私も髪が伸びたし、身長も伸びたろう。彼らに比べれば大した成長は見られないが、それでも確実に月日は経過していた。不意に笑った私を彼は疑問に思ったのか、少し眉根を寄せる。彼らしい態度であった。変わる事、変わらない事。人は変わる、人は中々変われない。どちらも正論ではあるし、間違ってはいないのだろう。心を海に喩えてみるとよくわかる。荒れて狂うことも、海面に緩やかな小波が浮かぶ事もある。気まぐれな天候が人の意思だとすれば、そうだって言えるはず。
「ごめんね」
 挨拶も、名前を呼ぶこともなく、私の口からそんな言葉が出てきた。
「…なんで」
「なんとなく」
「そんな簡単に謝るもんじゃないぜ」
 そうね、全くだわ。途端彼は嫌悪に顔を歪めて、咎めた事を後悔したように苦笑した。歯痒さに、地団駄を踏みたくなる。まだまだ私たちは幼いのだ。感情が喚起するように、私は彼を見る。絡んだ視線、私達はあの頃と何が違うのだろう。何か変わったのだろうか。外面ではない、成長でもない、心が、何を、得たのだろうか。もしくは無くしたのだろうか。視線を動かすと、窓の向こうはやっぱり赤くて、それは今の私の心を映しているように思えた。
「待ち合わせ時間だとまだ夕焼けなんて見れない筈だったのに」
「…ごめん」
 いいの、待つのは好きだから。ただ、嫌味を言ってみたかっただけ。趣味が悪いとぼやいた彼を私はただ笑って返した。一見、私たちは周りからどんな関係に写るのだろうか。部員とマネージャー、それ以上、以下でもない。友人には見えないかもしれない、だってもう私は貴方を好きになりすぎた。
 通り雨みたい、そう言ってしまってから、私はどうして彼を呼び出したのだろうかと考える。何故彼は私を見ないのに、私は彼に特別な感情を抱いてしまったのだろうか。ずっと降り続ける豪雨でもなく、晴れ渡るような晴天でもなく。そんな気持ちは不意に私の前に降り立って、そして心を暖めた。笑うと嬉しいし、寂しくもなる。強くなる事も弱まる事もない、それはもうすぐ卒業を眼前にしているからだろう。結論、私は焦っていた。この感情に名前をつけるなら情愛。慈愛。どうして彼なのかも私はわからないし、理由を述べろと問われても首を傾げる外にない。
 それでも貴方は私の特別であった。





 緑にきらめく葉っぱ。ゆっくりとした風の流れが窓の向こうから吹き込んでくる。微風は俺の頬を撫ぜて、陽光は静まった空間に明かりを渡していた。何もすることがない、正確にはどうすることも出来ないと言うのだろう。俺は澄んだ空を窓越しにぼんやりと眺めているだけの時間を過ごしていた。あまりの無音、変化の訪れない景色。脈絡のない感情だけが俺を責めたてる。ここにいていいのか、どうするべきだったのか、と。悪循環を繰り返す思考を叱咤する者もない、そもそも誰を責めることも、嬲る事だって許されない。君がいなくなる恐怖、君を陥れた原因、怒りか恐れか、どちらとも付かない思いだけが俺の心を満たしていた。これは悲劇か、はたまた喜劇か。
 あの時、俺は隣のクラスで人気がなくなるのを待っていた。会話を聞かれるのが嫌だというわけでもなく、それは実際只の言い訳で、どれだけ彼女が俺を待つのか試したとも言える。そんな事、君は気付いていそうだけれど。
 この静寂は、この空間はあの教室での記憶を蘇らせる。堪らなくなって立ち上がり、ずぼんのポケットに財布と携帯だけを押し込んで部屋を飛び出す。勢いよく戸を開けた為、派手な音がした。母親が驚いたように顔を出したが、気付かないふりをして玄関を潜り抜ける。外は秋とは思えない暑さが、走る俺に重石を乗せてきたみたいだった。


 駆けたまま向かったのは、学校。意味も理由もありはしない。只、自然と脚を向けてしまった。赤黒い土を踏みしめてグラウンドを目指す。横切る校舎は無機質に見え、乾いた空気に唇が乾燥する。吐き出す息に白さはないが、植えられた木々に季節は写り出ていた。褐色に色づく葉、枝から離れて落ちたものを踏みしめると小気味のいい、くしゃりとした音を立てる。まだ、これだけ暖かいというのに。季節はもう、移り変わっていく。
 グラウンドの金網が見えてきた頃に、人影を見つける。空を仰いで人形の様に動かないそれは、俺たちの監督であった。誰にも会いたくない。このまま引き返すべきかと、荒い息のままその様子を窺っていると、感度の良い彼女はすぐに俺に気がつく。振り向いたその表情は一瞬にして翳った、一体、誰を期待していたのだろうか。そんなの、愚問でしかないのだけれど。
「ああ、どうしたの?」
「ただ、なんとなくです」
 正直に答えておいた。嘘をついてもなんの得もない。彼女の瞼は朱色に染まり腫れているのが遠めでもわかる。けど笑っている、それは監督としての意地だろうか。泣けない人間がいるのだから、泣いてほしいとも思う。そんなの傲慢だと分かっているけれど。彼女の真意がわかることなんて、多分一生来ない。
「私もよ」
 一陣の風が吹く、耳朶に響いた遠い風音。薄汚れた草色のフェンス越しのまま監督を見ていた。彼女は俺を一瞥しただけですぐに空に視線を戻す。天を仰いでいる。誰かを、待っているような仕種。疑念が生まれた、目の前のこの人は微笑んでいるから。何が彼女を笑わせるのか、俺には到底理解できない。そうすると些少の事柄も見えてきて、また俺は心が狭くなってくる。この人は喜んでいるのだ。
「なんで笑ってるんですか」
 自分の声が責め立てるような響きを持っていたので、驚いた。無意識、だ。猛る感情、この人を責めても何にもならないのも知っているのに。
「泉君は喜べないの?」
「喜ぶ?この状況で?」
 三年過ごしたこのグラウンド。数メートルの距離を保ったまま交わされる会話。引退するまでお世話になった恩師だ、どれほど感謝しているだろうか。しかし相容れないこともある。
「…あんな目の前でクラスメイトが…篠岡が…巻き込まれて、俺が」
 俺が試したりなんかしなければ、もっと遅くに行っていれば、気の利いた言葉を出していれば、素直に君が好きだと伝えていたら。止め処なく溢れて来る、過去を振り返ることが無駄なことも知っている、それでもじくじくと侵食してくる言葉の渦に心は呑まれてしまいそうだった。追い払いたいのに、出来ない。それは自分のせいだと知っているからかもしれない、只、逃げたいだけかもしれない。けれど彼女の紡がれた言葉に俺の頭は停止する。
「…どうして生きていることを喜んであげないの?」
 鈍器で頭を殴られた気分だった。呆然としたままの俺を尻目に監督は続ける。
「千代ちゃんが生きているとわかったとき、眼を覚ました姿を見たとき、嬉しくはなかったの?安堵はしなかった?亡くなっている方がいるのに不謹慎なのはわかる。それでも生きてることに感謝はできた筈でしょう。
病室の前であの子の声を聞いた時、どうして我慢したのか思い出しなさい。誰よりも泉君に千代ちゃんは言ってほしかった筈だわ」
 この人はどこまで気がついていたのだろうか。いつの間にか監督は俺の方に眼を向けていた。それがあまりにも真摯で、俺はたじろぐ。ぐらぐらと眩暈が襲う、俺は何を考えていた。
 後悔、した。伝えたかった言葉の羅列ばかり並べて、反芻しているばかりで。憾んでばかり、で。
 姿を見て、辛かった、泣きたかった。痛みを堪える様にして掌を握り締めたのは何故だ?全てを薙ぎ払う様にして、病室を後にしたのは。
 そこまで考えていると、不意に彼女が声を立てて笑った。それが合図であった。俺は駆け出して、彼女のいる所へと駆けた。










 宝物だと笑うと、彼も表情を緩めた。それが始まり。
「………泉君」
 乱暴に開け放たれた扉の先に今度は外でもない彼が立っていた。どくりと一瞬にして心臓が跳ねる。早鐘の様に響いてくるそれに気付かないふりをしたかった、そんなの、無理に決まっているのに。何より声を出すのも億劫なのだ。彼の名前を呟いただけで、喉は多少の痛みをあげる。こんな状況下で私は未だ起き上がることもできない、逃げることもできない。逃げたいのだろうか、誰から?彼から?彼の、気持ちから?ゆっくりと彼は病室へ歩んでくる。一歩一歩踏みしめるようにして、まるで綱渡りでもしているかのように。息が荒い、走ってきたのだろうか。そうして小さく気分は、と尋ねられた。大丈夫、そう伝えようとして声が出ないことに気付く。喉がからからだった。代わりに一度頷くと、彼はその表情を緩め、そうと安堵するようにして笑う。そして緩慢な動作で腕を伸ばし、髪を撫でてくる。くるくるくると、指で遊ぶ。くすぐったさに瞼が震えて思わず眼を閉じた。すると布越しに伝わる掌の温度、彼が自分の掌を握り締めたのだ、窺うように瞼をあける。彼は、泣いていた。
「痛かったら言って」
 今度は私の涙腺が溢れて、ようやく私は彼に届いたのだと思った。





滑稽だろうか宝石を抱きしめる僕は(私は)