通路を挟んだ所からの声だった。空耳かと思い、鍬を握りなおしたが再度声に止められる。聞き覚えのある、彼の声であった。

 夏、草を刈っているときには早く季節が移るのを望んでいたのだけれどね。そう笑っていると、同意するように笑って彼は返してくれた。優しい声音だった。木枯らしが肌を滑るたびに、ひやりと刺す様な感覚。乾燥した風に、また溜息が漏れる。私は彼が持ってきてくれた料理を丁寧に噛んでから飲み込んだ。温かい湯気が顔にかかり、ゆっくりと馴染む。優しい香りのしたおでんはじわりと心地良い。陶器の器をそのまま持ってくるのがあまりにも彼らしかった。露まで飲み干して、口元を拭う。そうすると丁度彼も食べ終えた様だったので、ぱちりと視線が重なった。
「しのーか食べるの早いね!」
「そうかな」
「俺と一緒だし、そうだよ」
 普段彼はそう言われているのか、断言する如く言い切った。しかし私はよく噛み下して食べていたし、そのお椀を空にするまで多分20分はかけていたと思う。食べたのは大根、こんにゃく、玉子、お餅のみ。これだけの所要時間をかけて食べたのだから、早いとは言いがたい。きっと、今日彼の食べるスピードが遅かったのだろう。比較しようのない感覚だ。普段の彼の食事風景を、私はおにぎりに齧り付いている姿しか知らないのだから。そんな疑問も朗らかに微笑んでいる彼を見ていると、どうでも良い事の様に思える。
 ふと彼は寒空に広がるグラウンドを一瞥した。それに倣って、私も木枯らしの吹くそれを見る。未だに草が悠々と伸びている箇所もあり、ああ、まだまだ頑張らねばと思うのだ。今日は部活のない休日で、誰にも口にしないまま私は草刈へやってきた。どういう経緯かは聞かなかったが、田島君も示し合わせたようにやってきたのが丁度正午。両手に二つのお椀を抱えて、小走りでやってきたときには正直眼を剥いた。彼はいつもの陽気さでフェンスの扉を蹴りあけ、当然の様におでんを私に差し出す。呆然とした私に気付かないのか、流しているのか、ぐいぐいと私の腕を取り、ベンチへと誘導した。途中私はおでんの汁を少しこぼしてしまうくらいに動揺していたと思う。
 私はお椀を洗おうとして膝を伸ばす、その時にまだグラウンドを見ていた彼は、私に眼を向けないまま言った。
「なんで今日もやってたの?」
「え?」
 何故、と言われても。
「休みだったから…」
「俺達が試験勉強しようって誘ったのに?」
 三橋の家でやるって言った。彼は野球をするような真剣さで私を射抜く。確かに、誘われはした。元々、この休日も試験勉強の為のものだし、それはわかっていた。それを断ったのは紛れもなく、草を刈るためだ。休日の過ごし方は人それぞれの筈だし、彼に責められるのはおかしい。拗ねているようにも見えるし、怒っているようにも見える。数分前まで、そんな様子少しも見せたりしなかったのに。いけなかったのだろうか、駄目だったのだろうか。何故休日を選んだかというのは、皆が練習している最中に近くで草刈をしていると、彼らの視界に入るからだ。昼休みに始めてから、休日もたまにやってくる。友人以外、誰にも言わずにしてきた事だったのに、見つかった当初、誰もにあまり無理はするなと念押しされた。それ以来、人目に付かない昼休みと休日しか手入れはしなかった。私は、好きなことをしているだけだ。草を刈るのが趣味だとかいうわけじゃない、このグラウンドの整備が好きだ。似たようなものだと友人には呆けられたが、例えば楽器が好きな人はその楽器の手入れを怠らないでしょう?それと何ら変わらない。グラウンドが好きなのだ。彼らが野球をするこの場所が。わたしの夢を繋ぐこの空間が、私は愛しくて堪らない。
 そんな疑問が頭を巡る中で、頬にぺちりと両手が当たる。田島君の掌が私の肌を包んだ。どうしてか彼は悲しそうに表情を歪ませていたが、私は近づいた彼の顔に驚いてその場に立つだけで精一杯だった。
「…勉強に誘ったの、しのーかに草刈させない為だったのに」
 喉がひゅ、と音を出す。何故、という言葉すらでない。泣きそうになって二の句が告げられない。胸を塞ぐような気分だ、寒かった風が奇妙なくらい生暖かいのは何故だろう。彼らしくない声色はどんどんと言葉を紡いでいく。私は一言一言を聞き取るのに必死だった。
「俺、勉強嫌いだけどしのーかの為ならできるかなって思ったよ。でも本人来ないんだもん」「知ってた、気にしてることも。影で頑張ってることも。眼に見えて身体細くなってんのに、しのーか俺と一緒で集中すると周り忘れるだろ」
 前の休みに夜の10時ごろ、校門から出て行く篠岡見たってシガポに言われたんだぜ。どうして俺に言わないの、誰でも良いんだよ。三橋だって誰だって。どうして言わないの。
「そうしたらこの間、しのーかどこかのおっさんに呼び止められてたろ」
「え」
「見てた。あれからずっと、俺達交代でグラウンド見張ってるの」
 あまりの事に、恥ずかしさに湯気が出そうだ。恥ずかしい。自分だけ隠れていたつもりだったなんて、実は皆に迷惑を蒙っていたなんて!事実、夜道の帰路で酔った会社員に呼び止められた、適当に流して去ろうとしたけれど腕を掴まれたので、震えた喉をなんとかして大声を出した。どこかの民家が窓を開けてくれたので、その音で相手は逃げ出すように駆けて行ったのだけれど。あの時は暫くその場を動けなかった、只、触られた腕を賢明に拭うようにしていたのを覚えている。もしかしたら泣いていたかもしれない。あれを、見られていた?ずっと?
「ごめんな」
「…じま…く」
「ごめん」
 危ない目に合わせてごめん。影からでしか支えてやれなくてごめん。肩に彼の額が当てられる、言わないつもりだったんだけどなあと、ぼやく声が届いた。まるで、泣いているかのようだ。私は何も言えなかった。どうしても、ここで謝りたくはなかった。意固地だとも思う、だけど、私はあれがあった後でも、泣いた後でも除草を止めたいとは、彼等の影を辞めたいとは思わなかった。ただあやす様に彼の短い髪の毛を撫ぜる、視界の端にある黒髪。私は何度も何度も撫ぜた。泣いても笑っても、私は私でありたかった。だから言おう。
「ありがとう」

 しのーかは強いね、そんな言葉にまた私なきそうになった。






もうすこし残酷だったなら





 続くかも