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「俺さぁ何かを愛し続ける覚悟が欲しいんだぁ」
 その唐突な言葉に、少なくとも俺は数秒間思考が止まった。こいつが感傷にでも浸るように眼を伏せた時、漸く言葉を理解する。只それだけあって、けして今の意図を把握したのではないのだが。今の、どういう意味だ?尋ねる様に隣に目配せるが、我等が主将も面食らった様に眼を丸めているだけだ。俺の視線に気付く様子もないので、多分相当驚いたのだろう。答える必要はない気もする。色恋沙汰には到底俺には無縁だから。人のそんな葛藤すら知らず、水谷は手にあるパンにかじりつく。挑発をしているようにも思えた。昼休みの朗らかな時間に、なんという爆弾を落とすのだろうか。
 人を愛するとか、言ったか。誰かに恋情すら抱いたことない俺にそれを尋ねる意味はなんだ。(失礼な話だが花井にもあるとは到底思えなかったし)
 しかも好き嫌いならまだしも、愛かよ。聞いた瞬間、言葉の重さに眉を潜めてしまう程に、俺はその言葉に嫌悪感があった。家族のように、仲間のように、無条件で大切に出来る人もいるのは確かだが、到底、理解出来ない感情なのも一理ある。不必要とまでは切り捨てはしないが、秤にかけてみても傾く事がないも事実。ここだけの話なら、つい先日の同時刻に呼び出しを受けた。顔を朱色に染めた少女は、顔立ちから同学年というのが窺えたが、ただそれだけであり、彼女の性格も、彼女が何組かも、ましてや名前すらも、俺は眼前にいる少女の事を知らなかった。むしろ昼休憩は貴重な睡眠時間だったので、腹立ちすら生まれてくる。貴方の事が好きです、ふいたままそう言った少女の声に、嫌味を乗せて、はじめましてと答えておいた。非道な奴だと言われても、欠片も心は傷まなかった。
 会話発端、根源の水谷はというと、視線にようやっと気付いたのかパンを頬張ったまま此方を見る。口に物を容れたまま喋ろうしたその頭を、花井がいち早く叩いた。呆れてため息を漏らすと、窓の向こうに鈍色の空が見えてくる。今日は部活が出来ないかもしれないな、今にも降りだしそうな帳に悔しさが募る。時間が惜しかった、一握りの時間だって無駄にはしたくない。食べ終えた空箱に箸を置くと、ほぼ同時に水谷が言った。
「…阿部は、野球を愛してそうだよね」
 いつの間にパンを飲み込んだのか、口元を緩めて水谷が言った。弾けた様に一瞥すると、それは緩慢に眼を細め微笑む。たまに、たまにだ。こいつが解らない。台詞と声音が合っていない、表情はとても穏やかに見えるのに、耳朶を這う声はいつになく低い。誰だこいつ、そんな言葉すら喉から這い出てきそうだった。窓に一つの雫が映し出される、呼応するように降りだした雨は、軈て窓ガラスを覆うみたいに広がっていく。消えていくみたいだ、外の世界が。全てを奪われていく感覚、憤りに似た感情。こいつが茶化した様に言ってくれたなら良かった、それならば俺も何時ものように接すればいい。
 甲高い声が一瞬響く、クラスの女子の一部が駆け寄った先に、ずぶ濡れの少女がいた。ぽたぽたと水滴が落ちる栗色の髪、友人にタオルを被せられ、降られちゃった、そう陽気に笑う姿があった。実質、彼女の纏っている服の肩口も眼に見えて濡れそぼっていた。
「―、あ」
 草刈りを。
 瞬間、がたりと席を立つ椅子の音。みはった視界の先にあるのは水谷で、指に握り締められたパンの空袋が見えた。ぐしゃぐしゃに握られた皺だらけの袋はすぐに放られ、その足は彼女に向けられた。何をするかと思った、その表情は何か感情を噛み殺すような姿だったから。息を呑み同じ様に椅子を引く、この焦燥はなんだろう、花井の息の呑む音が微かにして、その時になって漸く雨音が鼓膜に届いた。しかし予想に反して、水谷は何もしなかった。ただ傍に沿うようにして、一言、おかえりと呟く。その言葉に篠岡は一瞬眼を丸くさせ、次には笑ってただいまと答えた。なんだこの会話。無意識に眉宇を顰めて、また椅子にかけなおす。倣うように、花井も、ふたりもやってきた。花井は羽織っていたカーディガンを篠岡に渡し、肩にかける。素でやるから凄いんだろうなこいつ、少しだけだが尊敬の念を抱いた。それより先程までの不躾な質問はどこへやら、水谷は篠岡と愉快そうに会話を始める。舌打ちを洩らしたいの堪えて、振り切るように再度窓を見た。ゆっくりと降り注がれていく雨粒を、さらさらと受け流すような硝子。日中とは思えない、暗く灰がかる空は夜空を思い
描かせる程に暗かった。
「阿部みたいに野球を愛したいなって思ってさ、幸せだしね」
 唐突にかけられた言葉に、不本意ながらも緊張が走る。それが純粋な疑問だったのだとわからせるような声音だった。会話を知らない篠岡は首を傾げたが、ただ真っ直ぐに水谷を見てから、俺まで視線を持ってくる。そして何故か口を尖らせた。
「………私だって負けないよ」
「はぁ?」
「はは」
 大好きだもんねぇ、みんな。大好きだから。今はそれでいいんだよ。


 それは幸福論だと、心なしか感じた。