01 mzcy
 まあるい、そう彼女が言った。満ちた月が鎮座する空を、仄かに染まった指で差す。促されて見た空は、すっかり夜も更けたもので、ああ、もう日付すら変わってしまうのではと思った。普段喧騒に包まれた部室、今はひっそりとした息遣いしか聞こえない。ぶるりと震えた身体を温めようと掌を擦り合わせる。悴んだ指先、肌同士が触れても感覚も薄れていた。もう笑わないの、聊か低い声が出て驚いた。でもそれは先刻彼女が俺に言った言葉だ。笑わない、笑わないとはどういう意味だろう。君の姿を思い出そうと瞼を下ろす、そうしてみるとやはり浮かぶのは君の微笑みである。女の子は笑ったほうが可愛いんだ。そんな理屈、勿論それだけが理由であるわけがない。仰いだ空を見ながら、例えあの月が闇に色づいたとしても、世界に黒しかないとしても、君は笑っていないと駄目なんだ。感覚の薄い指で君の手を引く、微かに感じる温度、ほう、と息をついた。気遣う余裕もなく、ただ、その指先がひやりとしていることに絶望して、力を籠める。身を捩るようにして彼女は手を振り解こうとしたが、離そうとは思わなかった。普段であればもっと違うやり方があったろうに。尤もらしい言葉が出てこない、滔滔と語れるものがあれば、まだ違ったのだろうか。それが叱咤でも賞賛でも構わないのに、俺が彼女に渡せるものは何一つないのだと思い知らされる。呼吸を繰り返すだけの口なんていらないのに。すると虚空に浮いていた彼女の指が触れていない片手を掴む。細められた双眸にどんな意味があるのかすら、俺にはわからない。噎せ返るほど愛しい世界を、壊す鍵は誰にだってあるのだろう。



02 hnmzab
 好きになったらいいんじゃないか、ぽつりと漏らした言葉に眼前の友人は大仰に目を丸くした。自分が苦心して出した結論に、そんな対応はないのではと少々非難したくなる。干からびるのではと思うような暑さが、部室にたちこめていて、只でさえ疲労が方に圧し掛かっているのに、窮地に追い込むような質問をこいつはしてきた。罰が悪くて阿部はどうなんだよと、逃げるようにいう。軽く鼻で笑われてしまったが。自分にとって居心地の良い場であるこの部屋が、話題によってこんなにも変わってしまうものなのか。座っているパイプ椅子の背もたれに重心を預けると、疲れが更に増した。反対側に座るふたりは、意気投合しているわけでもなく、ただ標的を俺と決めているような目で見てくる。なんだ一体。机に広げられた課題や本に集中しようという気はないらしい、まずそれに倣って書物を閉じたのがまず間違いだった。絵空事のように、ただ言葉だけを聞いていればよかったのに、関心がある話題でもなく、ただ、苦手と分類される会話を聞いてしまったから。少しばかり、聞かせるように溜息をついてみる。返ってきたのは、溜息つくと幸せが逃げるという、俺でも知っている情報だったのだけれど。柔らかに微笑む水谷は、ずっとその表情を変えない。嬉々として、よく笑う姿は、幼くも大人びても見えた。阿部も笑うとまではいわないが、心なしか笑っているように見える。阿部はなんだかナイフのような、時に裂くような印象が強い。頻出するようになった会話は今に始まったことではないし、気に留めるものではないのだろう。数分後、話題さえ変えてしまえば、この会話はどこか彼方へ消える筈だ。やけに引き伸ばすなあ、と思う。
「花井が好きになる子は幸せだなーと思ったからさ」
 それだけ、と朗らかに笑うので、心なしか阿部すら同意するように口元の端を上げるので、俺はもうどうしたものかと、本当に、どうしたらいいのかと思ってしまう。体中が沸騰するように熱くなって、でもそれは太陽の日差しのせいでも、室内の温度のせいでもない。本当に失礼な物言いだが、阿部にしては珍しいなと思う。だって、こんな話題だし。同じような問答が頭の中をぐるぐると回る、なんという堂々巡りだ。


03 mzab
 珈琲に砂糖とミルクを入れてみた。ただそれだけの事に、大仰に驚いた姿を見せる同級生、基、部活仲間。自販機に向かった後ろをついてきた背中、教室までの帰路を淡々と歩いていく。食事を終えたばかりなので早くも眠気が訪れ始めていた。そういえばこれから惰眠をとろうとしているのに、カフェイン摂取はないんじゃないのだろうか、そう水谷に言われるまで気付かなかったのは迂闊だった。冷えたそれを一気に喉に流し込む、教室に辿り付く前に飲み干して、ゴミ箱へと投げ入れておく。かこん、そんな子気味いい音がした。
 昼の休み時間、校舎には澄んだ音色が流れている、楽器の名前もよくわからない多重に組み合わせられた旋律だった。水谷が綺麗な音だねーと廊下を踏みしめながら言う、返事を期待していなかったような物言いだったので、あえて何も言わないでおいた。元々、興味がない。たまに耳朶に響くそれは、届く、そう表したほうがいいだろう。基本、校内放送が耳に伝わってくるのは眠ろうとする寸前と鐘だ。ゆるやかに流し込まれる音に、ゆっくりと瞼を下ろす。そんな日常。強いて言うのであれば、その音が煩く激しいものであれば迷うこともなく俺は教室のスピーカーの電源をオフにしていた。睡眠を妨げるものにはまったく興味がない、それは裏を返せば静かに流れる旋律であればなんでも構わないといっているようなもの。しかしそれを失礼だとは思わないし、思えない。人の優先順位ほど、翻すのが難しいものはないだろう。今日流れているのは静寂に似た、静かなもので睡魔を震わせるような音。ピアノだと先をあるく背中が言った。相変わらず、ひとりで言葉を述べている、答えを待たないその声も、まるで音楽のようだった。音律がくすぐるように頭を巡る、喧騒が響く部屋は静寂に包まれて、ゆっくりと子供達に音を届けている。満ちたような、声と音。ふと瞼を下ろすと、一瞬だけ鍵盤浮かんだ。白と黒が並ぶあの楽器、指が奏でる旋律。自分の指は太く、皮も厚い。それはどんな指だろう、それを弾く人の掌は一体どんなものだろうか。しかし眼前を歩く人の指も俺とさして変わらない掌だった。野球をしている指だ。しかし俺はこれがいいと思う。これが嬉しいのだと思う。





071220